人生の午後
よく人生を一日に譬(たと)えられる事がある。
人の寿命を80年とすると、正午が40歳という事になる。
さしずめ40歳からは、「人生の午後」と言える訳である。
子曰、
「吾十有五而志于学、
三十而立。
四十而不惑、
五十而知天命。
六十而耳順、
七十而従心所欲不踰矩。」
現代風に解釈すれば・・・
15歳で学問を志し・・・ボクの場合はこの時点で既にアウト
30歳で自立した・・・まぁ、世帯主にはなったけど
40歳で惑わず・・・ここの数年間で3度転職してます(迷いまくりやん)
50歳で天命を知る・・・ある意味、身の丈は悟ったような気がする。これって、諦めか?
60歳で耳に順い・・・人の言う事を素直に聞けるようになるのだろうか?
70歳で心の欲するところに従っても矩をこえず・・・もう既に行儀良い人生を歩んでると思うけど。。。
「惑」は"狭い枠にとらわれる"という意味があるそうで、そう解釈すれば
15年勤めた会社を飛び出して より広い世間の中に我が身を置いた訳で、
よりグローバルな視野を手に入れる事が出来たと言える?
まだ天命を知る歳には至っていないが、己の器量というか天分は既にわきまえていると思う。
少し寂しい発言のようにも聞こえるが、実際今から逆立ちしたって宇宙飛行士やノーベル賞博士になれる訳などなく、
己を知り、自分の身の丈に合った生き方をしたいと思う。
「ハチドリのひとしずく」という南米アンデス地方の昔話をご存知だろうか。
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あるとき 森が燃えていました。
森の生きものたちは
われ先にと逃げていきました。
でもクリキンディという名のハチドリだけは
いったりきたり。
口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます。
動物たちがそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」
といって笑います。
クリキンディはこう答えました。
「私は、私にできることをしているの」
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このハチドリは、天命を知っている。
人生の午後3時を目前にして、
これからの9時間ほどをいかに生きるか思案中の日々である。
何となく生活して生きて行くのではなく
ハチドリのように小さくても 何かの役に立ちたい
自分のだめだけではなく
誰かのため 何かのために
何かをしたい
「ハチドリのひとしずく」 いま、わたしに出来る事
森が燃えていました
森の生きものたちは
われ先にと逃げていきました
でもクリキンディという名のハチドリだけは
いったりきたり
口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます
動物たちがそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」
といって笑います
クリキンディはこう答えました。
「私は、私にできることをしているだけ」
ハチドリのくちばしのひとしずくは ちっぽけなものです。
でもそれがたくさん集まれば、大きな力になる可能性を秘めています。
諦めて何もしなければ、ゼロはいくつ集めてもゼロですものね。
クリキンディは教えてくれます。
自分一人の力はちっぽけなものだと諦めてはいけない。
どうせ無駄だ、何も変わりはしないなんて決め付けは駄目だと。
人の心は弱いものです。
どうしてもすぐに 諦めてしまったり、
無力感に苛まれてしまったり しがちです。
そんな時、クリキンディのことを思い出し
気持ちを持ち直したいものです。
日々の生活に活力が無くなって来たように感じる今日この頃。
人は何か事を成す時、重要な意義とか大切な目的があれば、より大きな力を発揮するもの。
あー、もっと世の中の役に立っていると実感したい・・・
大義は社会貢献、報酬は感謝の心、原動力は必要とされているという実感
でも、あんまり肩肘張って張り切り過ぎるのも考えもの。
時々ホゲ~ッと肩の力を抜いて、のたりのたりとゆきたいものです。
地域ボランティアの事や地元の雑多な情報、趣味の話や心温まるチョット良い話、日々の徒然なる戯言など、気の向くままに綴ります。